太陽は空高く昇り、海を照らしていた。激しく波打つ海面はその光を反射させ、至る所に届ける。燦然と照らされているのは人工的な国境線だ。
僕は、5歳まで韓国で過ごし、それ以降は日本で暮らしている。そして、時々わからなくなる。自分は韓国人なのか、日本人なのか。
今年の夏、マレーシアのとある島でシュノーケリングをした。サメ、亀、そして種々の魚と出会った。刺激的で幻想的な体験だった。そして、これを通じて気付いたことがある。
サメ、亀、小さな魚――種類も形も違う。性格もそれぞれ違う。
逃げるものもいれば、近づいてくるものもいる。でもみんな自由に、海を共有している。
かつて海にいた僕たちは、陸に足をつけ、見えない線を引き始めた。その過程にいたのが、日本と韓国だ。
学生時代、僕は歴史の授業で特に、韓国に関する話は真剣に聞いていた。意識的に取り組んでいたわけではない。体が勝手に反応していた。日本と韓国にはどうやら「国境線」があるらしい。教科書上で赤く強調されくっきりとしたその線は、ここから先は別の世界だと語りかけてくる。
日本の友人からは「日本人っぽくない」と言われることがある。韓国の友人からは「韓国人ではないな」と言われる。きっとみんなの中では、日本人はこうである、韓国人はそうであると、何か明確なイメージがあるのだろう。
僕はそのどちらでもないような気がする。
韓国人と話すと、日本人のような気がする。日本人と話すと、韓国人のような気がする。国籍が入れ替わる。言語が交差する。どこにいるのかわからなくなる。
気づけば、僕は「国境線」になっていた。
ドボン。バッシャーン。
島の海にもう一度潜ってみる。すると、多種多様な魚が自由に泳いでいる。性格も、肌の色も、身長も、住む場所も異なるけれど、ただ海の中で息を吸っている。
海中にはどこにもくっきりとした赤い線は引かれていない。見えるのは、綺麗な夕日と果てしない地平線。
僕らは海から陸にやってきた。
僕は、魚だった。
みんなと一緒に泳いでいた。